心に響く文章 其の壱
しかし、君、誤解してはいけない。僕は決して、絶望の末の虚無みたいなものになっているわけではない。船の出帆は、それはどんな性質な出帆であっても、必ず何かしらの幽かな期待を感じさせるものだ。それは大昔から変りのない人間性の一つだ。君はギリシャ神話のパンドラの匣という物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑、陰険、飢餓、憎悪など、あらゆる不吉の虫が這い出し、空を覆ってぶんぶん飛び廻り、それ以来、人間は永遠に不幸に悶えなければならなくなったが、しかし、その匣の隅に、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。
それはもう大昔からきまっているのだ。人間には絶望という事はあり得ない。人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。正直に言う事にしよう。人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。それはもうパンドラの匣以来、オリムポスの神々に依っても規定せられている事実だ。楽観論やら悲観論やら、肩をそびやかして何やら演説して、ことさらに気勢を示している人たちを岸に残して、僕たちの新時代の船は、一足おさきにするすると進んで行く。何の渋滞も無いのだ。それはまるで植物の蔓が延びるみたいに、意識を超越した天然の向日性に似ている。
自分にとって
「パンドラの匣」とは?
「希望」とは?
いろいろ考えさせられます。
断薬から2年3か月
断薬後、飲んだ薬のこと、薬を飲んでいた時の行動について考えない日は一日もありませんでした。過去を振り返ることは辛いことです。しかしそれらを考える頻度は確実に減ってきました。身体的な面での改善は朝起きられる日が多くなったこと、体温調節が回復している事が挙げられます。活動面ではウォーキング、図書館での読書、掃除&洗濯を継続させることを目標にしています。断薬から2年3か月経過しましたが、まさかここまで精神的にも肉体的にも回復するとは思っていませんでした。何回も絶望の淵に立たされ、自分の過去を呪い、辛い日々を過ごしてきましたが時間の経過と共に着実に回復してきました。またこの経験も人生においては無駄ではないという前向きな考え方も出来るようになりました。『完全復活』は目指しません。不確実な世界の中で、不完全な人間が、それでも精一杯生きていくにはどうすればよいのか?『今日出来る精一杯の事』を積み重ねていくことだと現時点では思っています。
1985年の夏休み
15歳の夏休みをあなたは覚えていますか?
当時中学三年生だった僕は部活と受験勉強の二種類の行為をただ無目的に漠然とこなしていたことしか記憶にない。「部活」と「受験勉強」には体を鍛え勉学に勤しむという学生の本分が確かに含まれてはいるが、その本質を考えることなく世間や周りの目を気にしながら「そうするのが良いらしい」という空気に従っていただけだ。そのときの僕はただのロボットのようなものだったのだ。そう気が付いたのはそれから33年後の夏、2018年8月である。勉強は自分にとっては何だったのだろうか?間違っても「将来は科学者になりたいから数学や理科を勉強しよう」とか「文学者になりたいから本を沢山読もう」とは思っていなかった。学校の成績が良いと親や教師から良く思われるから、周りの友人から一目置かれる存在になれるから、ぐらいの気持ちしかなかったと思う。今としてみればとても寂しくむなしい気持ちになる。「本質を見抜く力」というものがいかに大切か痛感する。
では本来、勉強とは何なのか?
今現在、自分で言えることは「今、知りたい学びたいことを深く掘り下げること」だろうか。自分が本気で知りたいことを集中して調べたり、参考図書を読んだりして見聞を広めること。そこには「なぜなんだろう?」「どうしてそうなるんだろう?」という疑問符が常に付きまとう。「?」が知ることの原動力になり、学ぶきっかけになる。つまり様々な人生における失敗がなかったら自分にとっての学ぶきっかけがなかったわけで、失敗して挫折してもっと勉強しなきゃだめだなと思ったことがエネルギーになっているのである。今、自分にとって最も興味があるのは自然科学の分野、宇宙&生物の進化や起源、社会学などである。ここに辿り着いたことには確かに理由はあるのだ。
1985年の夏もきっとそれなりに暑かったんだろう。2018年の夏はどうなるか?
自分次第である。
灼熱の引っ越し準備
連日最高気温が35℃越え
もう体力の限界と思いつつ
悪条件の中
部屋の荷物を仕分けしている
体に負荷を与えることは
回復への近道
多少の無理は
必要なもの
あと1日
頑張る・・・・