惑星☆のかけら

向精神薬からの脱却記録、個人的な生活メモ、雑記、つぶやき、好きな音楽について書いています

断薬から3年が経過しました

今月の15日で断薬から丸3年が経過します。

3年=1095日間、苦しみに耐えました。生き地獄からの生還。

現在、とても良い環境で仕事が出来ていることが、不思議というか、

奇跡というか、「人生万事塞翁が馬」なんだなということを実感

しています。

 

生きていてよかった。

この出会いに感謝します。

RE:(再び)

4月2日から仕事を始めた。

ずっと目標にしていた社会復帰、働くこと、お金を稼ぐこと。

「何でもいいから、家から出てやり始めれば、何かが変わる。」

と思って派遣の仕事を始めてみた。

体を動かし、目の前の作業に没頭することで、悩みや心配事が頭から抜けて行った。

今月は計17日勤務することが出来た。

ただ、淡々とこの現実を受け止めよう。

先の事は考えない。

今、目の前にある(瞬間)を生きるだけ。

 

今の自分に必要な言葉

長嶋一茂の著書より

自分の身体、心は他人は褒めてくれない、自分で褒めてあげる。
「もっともっと症候群」をやめる。
「まぁいいや、だいたいで」と考える。
自然に身を置く。人間は自然の一部。
明日死ぬとなったら、今あるものはほとんど必要ない。
裏切りは日常茶飯事、裏切りに慣れる。
笑うことの大事さ。

 

 

 

いやぁ(◎o◎)!

至言ですねぇ。

イチローの言葉

イチローの引退会見での言葉より

*********************

地道に進むしかない。
進むだけではないですね。
後退もしながら、

あるときは後退しかしない時期もあるが、

でも自分がやると決めたことを信じてやっていく。
それが正解とは限らない。
間違ったことを続けてしまっていることもある。
でもそうやって遠回りすることでしか、

本当の自分に出会えない。

*********************

 

今の自分の心境に刺さってくる言葉である。

 

YMOとの出会い

それは思い出したくない記憶であった。

小学校高学年時代に不登校を経験している私は1980年10月から1982年11月までの間に4回ほど入院生活を送ったことがある。小児科病棟に入院させられて、精神鑑定とか知能検査とか脳波測定とかCTスキャンとか胃カメラとか・・・もうありとあらゆる検査を受けさせられ、家族とも隔離された暗黒時代を送った過去がある。その記憶が、最近になってより鮮明になってきているのだ。それはトラウマと呼ばれるものなのか、ある特異な記憶の断片なのか、何なのか良く分からないけれども、約40年前のことが気になって仕方がないようである。これは今の自分の心境と何かシンクロしているのかもしれないし、現在の状況やこれからのことを考えるヒントになるかもしれないと思い、書き始めてみた。

この件のキーワードはYMOである。

「ある記憶が冷凍保存されていてあるキーワードでロックされていた」という仮説を自分で立ててみた。

4回の入院のうち一番印象に残っているのが、第二期1981年2月から5月の入院期間だ。

その期間、私は信州大学医学部付属病院(長野県松本市にある)に入院していた。この病院に入院している子たちはほとんどが難病を患った子ばかりで、私が入院して入った6人部屋の中の他の子たちはみんな白血病だったと思う。(正確に病名を聞いたことはなかったので確実とは言えないが、血液製剤の点滴を頻繁にしていたのでたぶんそうだったと思う。)

この6人部屋の病室には、ほぼ年が近い男の子が揃っていた。ベットの後ろの棚には好きな雑誌やコミックやカセットテープが並べられていたので、お互いに何が好きなのかが一目で分かるという環境であった。僕はドラえもんのコミック数冊と機動戦士ガンダムの「BGM集Ⅱ~戦場で」とYMOの「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」と「パブリック・プレッシャー」のカセットとモノラルのラジカセを置いていた。まさに1980年のセレクトで笑ってしまうが、他の子も鉄道雑誌、国鉄の時刻表、アニメージュ、少年ジャンプ、ルービックキューブなど「これぞ昭和」といったアイテムを揃えていたので各々のキャラクターが早く理解出来て良かった。共通項が見つかればそれについての会話が始まるところは今のSNSと全く同じで、40年前もコミュニケーションの基本は変わっていないことに気が付く。ただリアルかネットかの違いがあるだけだ。

深刻な病気を抱えている子たちがいるにも関わらず、病室には暗く湿った空気はなかった。いや、今でこそ理解できるが、みんな深刻な事態を抱えていているからこそ無理して明るく振舞っていたのだろう。お見舞いに来る家族の人達もとても気を使っているように感じられた。時々、容態が悪くなった子のベッド周りのカーテンが閉められ、担当医師や看護師たちが慌ただしく出入りしている時もあったなと、これを書きながらも連鎖的にその時のことがいろいろと思い起こされる。「○○くんは鼻血が止まらなくなってしまったので話しかけてはいけません」と看護師に言われたこともあった。

入院して最初に声を掛けてきてくれたのは、2歳上の小林くんであった。飄々とした態度と明るい気質と歯に衣着せぬ発言が印象的で、私がいた病室のリーダー的な存在だった。彼は僕の持っているYMOのカセットについて話をしてきた。

「YMO好きなの?」

それ以降、すぐに小林くんとはいろいろと話をするようになり話題は尽きなかった。

彼は私が知らない坂本龍一高橋幸宏のソロアルバムを持っていて、自分のベッドの後ろの棚にレコードを飾っていた。高橋幸宏の「音楽殺人」のジャケットデザインは当時とても怖い印象があったので強烈に覚えている。「サラヴァ!」も一緒にあったような気がする。

小林くんとの最初の話題は「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」についてであった。私はYMOメンバーの経歴やソロ作品などの知識は皆無であったが、小林くんはソロ作品から入っているので、音楽的基礎体力がそもそも違っている。かなり博識だったなあと今でも感嘆する。私がYMOを聴くようになったきっかけは、兄がカセットを貸してくれたことと「テクノポリス」と「ライディーン」がテレビでお茶の間にもよく流れるようになり、YMOが社会現象化した流れがあったからだ。シンセサイザーとコンピューターと生演奏の融合なんていうコンセプトは当時は知る由もなく、今まで聴いたことがない音の響きに惹かれていた。しかし小林くんは最初から違っていてYMOの本質を理解していたのかもしれない。アルバム収録曲の中では「キャスタリア」が一番好きだと明言していたことが僕を驚かせた。

「えっ、あの暗い曲のどこが良いの?」

と彼には言えなかったが、それが私の当時のYMOの理解度だった気がする。

 

YMOが自分の音楽体験の根底にあることに気が付いたのは、昨年の暮れに図書館で何となく借りた一冊の本がきっかけだった。そこでメンバーの音楽制作過程の裏話のような記事を読み、久しぶりにアルバムが聴きたくなってしまった。手元にあったのは「ソリッド・ステイト・サヴァイバー」のCD1枚のみ。もちろんこれは名盤でありYMOといえば多くの人が抱くイメージそのものかもしれない。しかし、気になったのは小学生時代に最も多く聴いていたアルバム「BGM」だった。「BGM」=「良く分からない」という印象を現在まで持ち続けていたが、改めて「BGM」を聴き直した時の衝撃は物凄く、と同時に発売日の1981年3月21日という記録が入院時の記憶を呼び起こしてしまったようだ。

 入院中にYMOの「BGM」をよく聴いていたという記憶だけはずっとあった。

消灯後の静まり返った病室で、ラジカセのモノラルイヤホンに神経を集中させて、あの前衛的でアヴァンギャルドサウンドを小学生が聴くというシュールな図は、今思い出すと、とても滑稽な気がする。この音楽はいったい何なのか?前衛?ロック?ノイズ?ニューウェーヴ

耳に入ってきた音を何の先入観もなく聴けるということは幸せなことかもしれない。

誰の評価を気にすることもなく、YMOの新作という理由だけで購入し聴いたけれども、全く音楽が理解できない、良さが分からないという強烈なインパクトを与えてくれた。しかし「BGM」を聴いて、裏切られたという印象は一切無かった。ただ、理解不能、それだけだった。

記憶を辿ると、小林くんは「BGM」をレコードで買っていてそれをテープにダビングしてラジカセで聴いていた。私もそれに便乗して母にカセットを買ってもらい聴いていたのだ。

聴いていて様々なことが脳裏をよぎった。夜間診回りに来る看護師さんの足音、病院の白く冷たそうな床、廊下に置かれている公衆電話、屋上の洗濯された沢山の白いシーツ、車いすの車輪の音、面会室のどんより沈んだ空気、こっそり食べていたハンバーガーの自販機、アルコールの消毒の匂い、激痛だった脊髄の体液を抜く注射など・・・・・・

「YMO/BGM」は入院生活の記憶を封印していた音楽だったのだ。

 

youtu.be

 

River

一昨日、久しぶりに妻と外出し、一緒にお昼ご飯を食べて、図書館で雑誌をパラパラと読み、セブンイレブンでカフェオレを買って、多摩川の河川敷きで腰を下ろし、景色を眺めていた。妻は「多摩川を見て歩いていると、くるりの音楽を思い出す。」とポツリ。自分も同じことを考えていた。ただそれだけのことだが、ここまで来るのにどれだけ大変なことを乗り越えてきたかは二人にしか分からない。